「自由の倫理的基礎はただ一つ、人を人として扱うことだ」という主旨の殷海光の言葉(前原志保撮影)

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殷海光故居

殷海光故居

中華圏における自由主義の先駆者・殷海光

殷海光故居は、国立台湾大学の哲学科で教壇に立っていた殷海光(いん・かいこう、1919〜1969)とその家族が暮らした住居です。殷は1949年に中国から台湾に移住し、この場所には1969年に亡くなるまで住んでいました。殷海光は国民党政権の権威主義的支配に異議を唱え、思想・言論の禁制に抗議し続けたため、その行動は常に政府の監視下にありました。しかし、彼は、北宋の文人、范仲淹(はん・ちゅうえん、989〜1052)の「寧鳴而死、不黙而生(沈黙して生きるより、発言して死ぬ方がましだ)」という言葉を胸に、その生涯を通じて自由主義を主張し、後に彼の思想は、台湾の民主主義の発展に大きな影響を及ぼしました。

学びのポイント

殷海光とは?

中国湖北省出身の殷海光(本名:殷福生)は、昆明の西南連合大学、北京の清華大学に学び、1945年に国民党の機関紙『中央日報』の記者となりました。1949年に台湾に渡り、台湾大学の哲学科で教壇に立ちました。『中央日報』の主筆を辞し、胡適(こ・てき、こ・せき、1891〜1962)、雷震(らい・しん、1897〜1979)とともに自由中国雑誌社を立ち上げます。雑誌『自由中国』誌上で蔣介石政権の独裁への批判を続け、政府の監視を受けるようになってもその姿勢は変わりませんでした。1966年には政府の圧力により台湾大学から免職され、経済的にも追い込まれていき、1969年に胃がんにより49歳で亡くなりました。

『自由中国』とは?

『自由中国』とは、1949年から1960年まで台湾で発行された政論誌で、共産主義を批判し、民主主義・自由主義思想を標榜していました。殷海光は、胡適、雷震らとともに主要執筆メンバーの一人でした。創刊当初は反共という点で蔣介石、国民党と良好な関係を築いていましたが、その関係は長く続かず、蔣介石の独裁的な政治体制が確立されるにつれて対立を深めていきます。1960年に雷震が逮捕され、懲役10年を宣告されたことをきっかけに、『自由中国』は廃刊に追い込まれました。

殷海光故居とはどのような場所か?

殷海光故居がある台北市大安区温州街一帯は、戦前は台北帝国大学、戦後は国立台湾大学の教員宿舎が集まっていました。殷海光故居の建物は日本式の木造建築です。戦後、殷海光が蔣介石の独裁を批判し、政府と対立してその監視下に置かれると、自由に外出することもままならなくなりました。そこで彼は、自分や家族に居心地の良い空間をつくるため自宅の庭の改造に勤しみます。庭につくられた築山は「孤鳳山」といい、殷海光が友人や学生と語り合っていた場所です。2003年には台北市の指定文化財となり、2008年からは、殷の写真や手書き原稿、書簡など、重要な資料を保存する場所として、財団法人殷海光先生学術基金会が管理運営を行っています。

殷海光が丹精をこめて整備し、友人や学生と自由を語り合った中庭(前原志保撮影)

さらに学びを深めよう
  • 【現地学習】「孤鳳山」に登り、常に政府の監視下にあった殷海光の生活を想像し、彼が追い求めた自由主義の理想について考えてみましょう。
  • 【事前学習】殷海光とともに『自由中国』をつくっていた胡適、雷震も著名な人物です。この2人がどのような主張をしていたか、調べてみましょう。
参考資料
殷海光の思想については「文化論としてのリベラリズム――殷海光」、『自由中国』については「米ソ冷戦下の反共リベラリズム――香港と台湾」(いずれも中村元哉『中国、香港、台湾におけるリベラリズムの系譜』(有志舎、2018年)が参考になります。『自由中国』に関する研究の状況については、薛化元著、原正人訳「中国の自由主義と台湾政治の発展――戦後台湾政治思想研究の一側面」『現代中国』第96号(2022年)で知ることができます。また、『自由中国』誌上で国民党政権に対する批判の論陣を張り、逮捕・投獄された雷震については、薛化元著、深串徹訳『台湾民主化の先駆者 雷震伝』(三元社、2025年)という評伝が日本で刊行されています。

(前原志保)

ウェブサイト
公式 財団法人記念殷海光先生学術基金会http://www.yin.org.tw/

(中国語)


台北市政府観光伝播局https://www.travel.taipei/ja/attraction/details/882
所在地
台北市大安区温州街18巷16弄11号

特記事項
団体(最大20名)の場合は、1週間前までに電話(+886-(0)2-2364-5310)での予約が必要です。