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北港大復戲院
大復戯院
劇場から日本統治時代と戦後台湾の関係を学ぶ-大復戯院と振興戯院
古い港町・北港は日本統治時代に港としての機能は衰えてしまったものの、製糖業ほか地域の経済活動の中心地として現在まで発展してきました。第二次大戦後の経済成長期、北港には4か所の劇場がありました。もっとも古いのが1927年に建てられた大復戯院(北港座)、もっとも新しいのが戦後の1954年に開業した振興戯院です。大復戯院は2009年に雲林県指定の歴史建築となり、2019年に新しい文化劇場として整備されました。劇場の内外にはかつての映画看板等が飾られ、往時をしのぶことができます。一方、北港振興戯院は2009年に無料開放の休憩ポイントとして整備され、映写室のある二階では伝統人形劇(布袋戯)の舞台や古家具を見て回ることができます。
学びのポイント
劇場では何が上演・上映されていたの?
大復戯院が開業した1930年代ころの劇場では、台湾語(閩南語)で演じる古典演劇の歌仔戯(コアヒ)・布袋戯(ポテヒ)、あるいは現代劇である新劇が盛んに上演されていました。1947年の二二八事件後、野外での集会が禁止されたことから、それまで野外劇の方式で観衆を集めていた歌仔戯・布袋戯の劇団もチケット方式の入場客を集める屋内劇場へと上演場所を切り替えていきました。伝統的な人形劇にレコードによる音楽や効果音といった派手な演出を加えた金光布袋戯はとくに好評を集めました。1950年代以降、香港からの映画フィルム輸入を契機に、徐々に台湾語歌劇である歌仔戯の内容を映画に改編した台湾語映画が撮影されるようになり、劇場での上映の主体はフィルム映画に切り替わっていきました。
中山路の商店街の歴史は?
中山路は北港朝天宮の参道として発展してきた北港のメインストリートで、現在も台湾各地から朝天宮を訪れる参拝客で賑わっています。日本統治時代の台湾では衛生改善を旗印に各地方都市で道路拡張や水道整備が行われました。とくに北港では1906年の嘉義地震で多数の建物が倒壊したことを契機に碁盤状にする区画整備がすすめられ、現在中山路とよばれている参道の商店街「宮前街」が整備されました。このときに現在の西洋風ファサードとバルコニーをもったアーケード商店街できあがりました。壁面に燕の装飾が並ぶ「燕子楼」こと世一賓館の建物は1937年建築で、北港の後期植民地建築の一つです。現在振興戯院となっている建物も1939年に西洋風建築に建て替えられ、戦後に劇場へと改装されました。
中山路(前野清太朗提供)
日本統治時代の建築が経てきた歴史は?
日本統治時代の建物のうち、公的施設や日本企業所有のものは第二次大戦後に中華民国によって接収され、多くはそのまま役所の施設や公務員宿舎に転 用されました。ただし日本統治を象徴する神社等は解体され、地名の改称(宮前街→中山路)が行われました。一方、地元住民所有の建物については第二次大戦後もそのまま営業が続けられたことから、長らく日本統治 時代の景観を残していましたが、経済成長の中で徐々に建て替えが進み、現在では多くの建物が失われつつあります。2000年代以降、植民地時代の名残である各地の商店街は「老街」(ラオジエ)と呼ばれて地方自治体や住民団体による町並み保存活動の対象になっています。
さらに学びを深めよう
- 【事前学習】【事後学習】楊力州監督が布袋戯(ポテヒ)の人間国宝である陳錫煌を撮ったドキュメンタリー映画『台湾、街かどの人形劇』(2018年)を見てみましょう。
- 【事前学習】【事後学習】日本統治期の建築の戦後の用途について調べてみましょう。 ・
参考資料
第二次大戦後の台湾映画の歴史については戸張東夫・廖金鳳・陳儒修 『台湾映画のすべて』(丸善、2006年)、小山三郎編 『台湾映画 ――台湾の歴史・社会を知る窓口』(晃洋書房、2008年)に詳しく記載されています。布袋戯・歌仔戯については、やや専門的ではありますが、陳培豊『歌唱台湾――重層的植民地統治下における台湾語流行歌の変遷』(三元社、2021年)に戦後の大衆文化との関わりを交えた解説をしてくれています。また北港ほか廟と市街の形成については、タイトルに「中国人の」とありますが、郭中端・堀込憲二 『中国人の街づくり』(相模書房、1980年)が詳しいです。建築の細かな装飾等については辛永勝・楊朝景 『台湾レトロ建築案内』(エクスナレッジ、2018年)と合わせると面白く見ることができるでしょう。
- 所在地
- 雲林縣北港鎮博愛路155