蔡純媚提供
笹沼俊暁撮影
彩虹眷村
彩虹眷村
冷戦が生んだ離散と在地化
「彩虹眷村」の「眷村」とは、軍人村を意味します。第二次世界大戦後、国共内戦によって100万人を超える人びとが台湾に移り住みました。大量の国軍兵士には、「眷村」が居住地として提供されました。彩虹眷村は、台中市郊外に建設された眷村の一つで、2000年代終わりには老朽化と再開発のため取り壊しが決まっていましたが、住民の黄永阜さんが描いたカラフルな壁画が話題となり、台中市の決定により観光スポットとして保存されることになりました。
学びのポイント
「外省人」とは?
第二次世界大戦と国共内戦の後、どのくらいの人数が中国大陸から台湾へ渡ったか、正確な人数は判然としませんが、1946年に台湾の総人口は609万人だったのが、1951年は727万人と急増しています。台湾に渡った人びとは、やがて「外省人」と総称されるようになりました(それに対し、以前から台湾に住んでいた人たちは「本省人」と呼ばれます)。彼らは、台湾を一時的な避難場所と考えていましたが、その後、多くは新しい家庭や仕事をもち、台湾で一生を過ごすことになります。
眷村はどのようなコミュニティ?
外省人は、中国南部や沿岸部地方の出身者が多くを占めており、眷村では各地の多種多様な言葉が話されていました。眷村の多くは、日本統治時代に造られた日本家屋を提供されたもので、生活や交通の不便な地域に臨時建設された粗末な家でした。一部の外省人は特権的な軍人や公務員等でしたが、中国大陸の農村などから着の身着のままで連れてこられ、退役後には困窮してしまう人が少なくありませんでした。
黄永阜さんはどのような人?
彩虹眷村の壁画を描いた黄永阜さんは、1924年に広東省台山県に生まれ、抗日戦争に参戦した後香港に居住しました。国共内戦によって、海南島を経由して台湾へと渡りました。1958年には福建省の金門島で発生した、中国人民解放軍との戦いに参加し、左肩を負傷して台湾本島へ送還されました。その後は台中に居住し、軍の新兵訓練センターや台中工業区、峯東科技大学等で文書係や守衛の仕事に従事しました。2010年、黄永阜さんは、村が取り壊されると知ると、突然ペンキで家の壁や道に絵を描くことを思い立ち、一人で大量の壁画を作成しました。
笹沼俊暁撮影
さらに学びを深めよう
- 【事前学習】【事後学習】国共内戦と外省人の歴史について調べてみましょう。
- 【事前学習】【事後学習】台湾では、多くの文学者や映画監督が眷村の出身です。実際に作品を鑑賞してみましょう。
- 【現地体験学習】現在の彩虹眷村には、かつての住民の生活の痕跡が多く残されています。調べた資料や映画、文学作品と照合しながら、彼らの生活を想像してみましょう。
参考資料
台湾外省人については、ステファン・コルキュフ著、上水流久彦、西村一之訳『台湾外省人の現在:変容する国家とそのアイデンティティ』(風響社、2008年)が詳しいです。また、王童監督『バナナ天国』(1989年)、楊徳昌監督『牯嶺街少年殺人事件』(1991年)等の映画や、白先勇著、山口守訳『台北人』(国書刊行会、2008年)、朱天心著、清水賢一郎訳『古都』(国書刊行会、2000年)、東山彰良『流』(講談社文庫、2017年)等の小説を参照してください。
- ウェブサイト
- 交通部観光局 https://jp.taiwan.net.tw/m1.aspx?sNo=0003112&id=A12-00124 台中市政府観光旅遊局 https://travel.taichung.gov.tw/ja-jp/Experience/Painted
- 所在地
- 台中市南屯区春安路56巷