桃園忠烈祠の前身は、日本統治時代の1938年に創建された桃園神社です。当時春日山と呼ばれた虎頭山の中腹を切り開き、選び抜かれたヒノキ材で造営されました。桃園神社からは南西方向の市街地を一望でき、開漳聖王廟(桃園景福宮)が見渡せたといいます。建築には流造(ながれづくり)という様式が採用されました。日本では、京都の下鴨神社、上賀茂神社を代表として広く全国に見られる様式で、本殿正面の屋根の前垂れが長く延びているのが特徴です。全島に200以上建てられた台湾の神社にも、この様式が多く用いられました。本殿、拝殿、社務所、手水舍、鳥居、石灯籠、狛犬、神馬像、参道等が良好な状態で残され、独特の雰囲気を醸し出しています。
長く延びた本殿の前垂れは流造の特徴(桃園市政府提供)
戦後、中華民国政府は、日本統治の精神的支柱であった神社の跡地に、抗日戦争の戦死者をはじめ国家に殉じた人々を祀る忠烈祠を設置しました。1972年に日本が台湾の中華民国と断交すると、台湾の政府は、日本の植民地統治を象徴する神社遺跡を徹底的に取り壊すことを指示します。これにより、台湾全島で神社建築が次々と姿を消していきましたが、桃園神社の遺構は、全島でほぼ唯一破壊を免れました。1980年代半ばには、老朽化した建物の修復に際して、神社建築を維持することの是非が議論されましたが、「日本の神社建築は唐の建築の流れをくむ」という建築家の意見が通り、神社建築のまま修復が行われました。つまり、桃園神社の建築はこの時、「中国らしさ」によってその命脈を保ったわけです。
1946年に新竹県忠烈祠として発足した当初、忠烈祠には、台湾島からオランダ勢力を駆逐し、清朝と戦った鄭成功に始まり、劉永福、丘逢甲といった台湾民主国(下関条約後、日本の台湾領有に抵抗して蜂起した現地勢力)に関わる人々、日本統治時代の武装抗日運動の犠牲者と、様々な人が祀られていました。抗日の英雄として祀られた人々の中には、社会主義に傾倒していた人もいて、「反共」を掲げる中華民国政府によって後に除かれた人もいます。