冨田哲撮影

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臺北自來水園區

旧台北水源地-水道博物館

世紀をこえて台北の人々に浄水を供給しつづけてきた「水源」

日本統治期に設置された浄水施設の一帯が、台北自来水園区という公園になっています。「自来水」とは水道水のことです。ウィリアム・キニンモンド・バルトン(William Kinninmond Burton)の計画にもとづいて、1909年に12万人分の水の供給が可能な浄水施設が完成しました。新古典主義の外観をもつ水道博物館は、かつてはポンプ室でした。公園内にある現役の浄水場では学校など団体の参観も受け入れており、水資源の学習の場としての機能もはたしています。近くを流れる新店渓から取水していたのは1977年までで、「水源」でなくなって久しいですが、周囲には今日でも、台湾大学水源校園(キャンパス)、水源市場、水源快速道路(都市高速)など、「水源」を冠した施設が点在しています。

学びのポイント

公園内にはどのような施設が?

歴史的なものとしては、上記のポンプ室とともにできた配水池(観音山蓄水池)と量水室、1964年に建てられた取水施設(渾水抽水站)があります。新店渓の水をポンプ室を通してろ過設備(現存せず)にまわし、その清水をふたたびポンプ室から観音山という小山の上の配水池に送った後、高低差を利用して自然に流し、量水室を経て台北の各戸に供給していました。水道博物館には新店渓から水をくみあげることと、配水池へ水を上げるために使われたポンプが展示されています。

冨田哲撮影

ウィリアム・キニンモンド・バルトンとは?

バルトンは1856年スコットランド生まれ、1887年に帝国大学工科大学(東京大学工学部の前身)に招聘され衛生工学を講じました。また、東京など多くの都市で上下水道の整備や衛生事業にかかわっています。1896年には、内務省衛生局長後藤新平(1898年に台湾総督府民政長官に就任)の要請に応じ、帝国大学工科大学で指導した浜野弥四郎とともに台湾へおもむきました。バルトンは台湾でも各地で近代的な上下水道の計画にあたりましたが、最初に完成したのが淡水の滬尾水道です。バルトンはその数か月後の1899年8月に東京で病没しましたが、弟子の浜野がバルトンの計画を引き継ぎ、水道整備を主導しました。

ポンプ室の設計者は?

台湾総督府で建築の仕事をしていた森山松之助です。1906年に嘱託として赴任し、その後技師となりました。来台にあたっては後藤新平の誘いもあったといいます。くわしくは、本サイトの 「国立台湾博物館 鉄道部園区」のページ をご覧ください。水道博物館では、かつて応接室だった部屋が森山や建物の設計に関しての説明にあてられており、展示されている青焼きの設計図には「嘱託 森山松之助」の名前が残されています。

冨田哲撮影

さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】バルトンと浜野は1896年から97年にかけて、上下水道整備をふくむ衛生政策の視察のため、上海、香港、シンガポールをおとずれています。なぜ、かれらはこれらの都市で調査をおこなったのか考えてみましょう。
  • 【事前学習】【事後学習】【現地体験学習】日本統治期あるいは第二次世界大戦後の台北の人口増加にともない浄水施設は拡大していきました。どのように発展していったのか調べてみましょう。
  • 【事前学習】【事後学習】江戸末期から明治期にかけて、欧米から招聘されて、幕府や諸藩、明治新政府や教育機関などで技術の導入や制度の近代化のための指導にあたった人々を総称して「お雇い外国人」といいます。その数は数千人にのぼるようですが、バルトンもその一人です。他に、直接または間接的に台湾の植民地統治に影響をあたえた人をさがしてみましょう。
参考資料
台湾の公共電視(公共テレビ)が2020年に放送した「飲水思源頭-臺北好水探秘(水を飲みて源を思う―台北の水の秘密を探る)」の日本語音声・字幕版を、台北自来水園区が公開しています。稲葉紀久雄『バルトン先生、明治の日本を駆ける!-近代化に献身したスコットランド人の物語』(平凡社、2016年)はバルトンの生涯を詳述しています。稲葉紀久雄『都市の医師-浜野弥四郎の軌跡』(水道産業新聞社、1993年)は入手が困難かもしれませんが、司馬遼太郎『街道をゆく40 台湾紀行』(朝日新聞社、1994年(文庫版1997年))の「潜水艦を食べる話」の章で、『都市の医師』を引用して浜野が紹介されています。お雇い外国人については、梅渓昇『お雇い外国人-明治日本の脇役たち』(講談社、2007年)をご覧ください。

(冨田哲)

ウェブサイト
公式 https://waterpark.water.gov.taipei/

中国語・英語

所在地
台北市中正区思源街1号