松島孝典提供

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雲林布袋戲館

雲林布袋戯館

地方の町から台湾の文化と近現代史を見る―雲林布袋戯館・虎尾郡役所・郡守官邸・合同庁舎

虎尾は日本統治時代の製糖業とともに発展した町です。1906年、虎尾の町に大日本製糖株式会社の製糖工場が設置され、台湾糖業鉄道の結節点として急成長を遂げました。1920年には現在の雲林県北西部を管轄する虎尾郡が置かれて虎尾が郡庁所在地となりました。虎尾の町の歴史は比較的新しいものの、18世紀ころより開発が進んでいた周辺の村々では様々な伝統芸能が伝承されていました。とくに伝統人形劇の布袋戯(ポテヒ、プータイシー)は戦後に新しい発展をとげ、現在の台湾のサブカルチャーへも影響を与えています。旧虎尾郡庁舎を改装した雲林布袋戯館では布袋戯の人形や不定期上演の劇団実演を見ることができます。また周辺の郡守官邸、合同庁舎といった施設群はリノベーションされ、日本統治時代の地方の町の姿をしのぶことができます。

学びのポイント

布袋戯とは?

中華圏の古典芸能として有名な京劇は、中国各地の地方劇の影響を受けて発展した芸能です。布袋戯は中国南方の地方劇から派生した人形劇で台湾・福建に伝わってきました。布袋戯で用いる人形は華麗な刺繍入りの衣装に木製の頭と手がついており、袋状になった内側に手を入れて操作します。それぞれの人形には京劇と同様に、官僚、武人、女形、神仙といった役割があり、1人の演者が複数の人形を使いこなします。台湾に伝わった布袋戯のうち伝統流派の諸劇団は虎尾がある雲林県西部でとくに発展しました。布袋戯は比較的簡便に舞台や設備が用意できることから廟への奉納劇としても歓迎され、現在でも各地の廟の前での上演を見ることができます。

伝統芸能である布袋戯が第二次大戦後も続いてきた背景は?

布袋戯は伝統的には台湾語を用いて演じられ、台湾の民衆文化と強く結び付いていました。しかし、 日本統治 時代の末期には日本語による「皇民劇」への転換が要求され、戦後の二二八事件後には野外劇で観衆を集めることが禁じられるなど、しばしば抑圧を受けてきました。しかし布袋戯は劇場でレコード・効果音等を用いた派手な演出の娯楽として生き延び、1970年にはついにテレビへ進出します。虎尾出身の布袋戯演者・黄俊雄が台湾語で演じるテレビ布袋戯は全台湾で高視聴率を記録し、あまりの反響に政府が放映を禁止するほどでした。1980年代に上演言語を 中国語(戦後台湾の国語) に切り替えて布袋戯のテレビ上映が再開されました。霹靂布袋戯(Thunderbolt Fantasy)シリーズは現在も高い人気を博しています。

雲林布袋戯館周辺の建物群の移り変わりは?

現在雲林布袋戲館となっている建物は1931年に建てられた虎尾郡役所です。日本統治時代の郡は一般行政のほか警察行政も担当したことから、館内には留置施設が残っています。布袋戲館の向かい側には1930年に建てられた合同庁舎があります。建物の滑り棒や火の見やぐらといった施設が示すように主に消防隊が用いていたほか、警察窓口 と住民集会所を兼ねていました。郡守官邸は純日本式木造建築であり、建物群の中でも一番古い1920年代の建築と推定されています。第二次大戦後、公的施設であった各建物は中華民国に接収され、引き続き警察署、消防署、宿舎等の用途で利用が続けられました。各種施設の移転が進んだ2000年代に旧虎尾郡役所は雲林布袋戲館へ、郡守官邸は雲林故事館へ改装され、観光施設として再スタートしました。

郡守官邸(前野清太朗提供)

さらに学びを深めよう
  • 【事前学習】【事後学習】布袋戯の伴奏に使われる台湾の伝統楽器について調べてみましょう。
  • 【事前学習】【事後学習】楊力州監督が布袋戯(ポテヒ)の人間国宝である陳錫煌を撮ったドキュメンタリー映画『台湾、街かどの人形劇』(2018年)を見てみましょう。
  • 【事前学習】【事後学習】各地の日本統治時代の建築の 戦後の用途について調べてみましょう。
参考資料
布袋戯・歌仔戯など台湾の伝統芸能については日本語で読める概説書があまりありませんでした。やや専門的ではありますが、陳培豊『歌唱台湾――重層的植民地統治下における台湾語流行歌の変遷』(三元社、2021年)に戦後の大衆文化との関わりも交えた解説があります。歌仔戯は第二次大戦後の台湾映画に影響を与えたことから、小山三郎編 『台湾映画 ――台湾の歴史・社会を知る窓口』(晃洋書房、2008年)等を参照するのもよいでしょう。

(前野清太朗)

ウェブサイト
公式 https://www.yunlinpuppet.com.tw/

(中国語)


所在地
雲林県虎尾鎮林森路一段498号